あの日、世界の音が途絶えたとき、人々は恐れよりも、安堵を感じていた。すべてを繋いでいた回線が断たれ、情報の奔流が静止した瞬間、胸の奥に久しぶりに空白が生まれた。

世界が崩れたとき、最初に失われたのは建物でも制度でもなく、意味だった。人々は言葉を交わしながらも、互いに何を語っているのか分からなくなっていた。音が残り、意志が消えた。それが、沈黙の始まりだった。

変わらない日々を繰り返すうちに、人々はその「繰り返し」そのものを生きる目的にしてしまった。毎日同じ時間に起き、同じ言葉を交わし、同じ景色を見て、「今日も平和だ」と言う。それはもはや生ではなく、模倣された永遠だった。

時計の針が、ある瞬間から進まなくなった。それは物理の停止ではない。心の時間が止まったのだ。

進化とは、本来、生き延びるための変化だった。けれどこの国では、変わらないことが生存戦略になった。人々は新しい可能性よりも、「昨日と同じ今日」を選ぶ。それが、最も安全で、最も褒められる生き方だからだ。

この国では、創造よりも再現が尊ばれる。新しさは疑われ、「前例のある安心」が最高の価値とされる。誰もが未来を語りながら、その実、過去の模倣を繰り返している。

この国では、過去が神として崇められている。それは信仰の対象ではなく、従属の対象だ。古い価値観は「伝統」と呼ばれ、新しい思想は「不安定」として退けられる。

調和は、音が重なり合うことで生まれる。だが、この国の調和は、音を消すことで成立していた。不協和音を恐れ、異なる声を排除し、全員が同じ旋律を口ずさむ社会。それは音楽ではなく、沈黙の儀式だった。

この国の「共同体」は、もはや現実ではない。それは互いを理解するための場所ではなく、孤独を誤魔化すための幻想として機能している。

平穏を保つために、私たちはいくつの真実を捨ててきただろう。衝突を避けるために沈黙し、波風を立てないために嘘をつき、「穏やかであること」を最上の価値として生きてきた。