【第三節】愛という監視

第二章:母性の過剰 ~優しさという牢獄~

愛は、いつから監視の形をとるようになったのだろう。
相手を思うことが、いつしか「見張ること」と同義になっていった。
その始まりは、ほんの些細な気遣いだったはずだ。

「心配だから」「大切だから」「あなたのために」――。
その言葉の裏で、愛は少しずつ形を変える。
見守るはずの視線は、やがて逃れられない光となり、
相手の自由を照らし出しながら、影を奪っていく。

愛する者の行動をすべて知りたくなる。
相手の痛みも喜びも、自分の中に取り込みたくなる。
だがその欲望の奥には、**「知らないことへの恐怖」**が潜んでいる。
愛は、理解の名のもとに相手を追跡し、
不安の名のもとに相手を管理する。

母は子を、恋人は恋人を、
そして社会は市民を、
「愛しているから見守る」と言いながら、
その行為を正当化してきた。

だが、監視に愛は必要ない。
それはただ、安心を得たい者の儀式である。
愛される側が、常に「見られている」ことを意識し、
自らの行動を修正し始めたとき、
愛はすでに、支配へと変質している。

優しさは境界を曖昧にし、愛は境界を消す。
そして境界を失った関係は、やがて息苦しさを生む。
見守られることは、最初は安心だ。
だがその安心は、自由を静かに腐らせていく。

愛の名のもとに、人は互いを観察し、
互いを評価し、互いを修正し合う。
「あなたのために」と言いながら、
私たちは、自分の不安を相手に託しているのだ。

――この国では、愛は見張り台の上から語られる。


観測:第二章・第三節 完 ― 愛という監視

ダークマザー