声を合わせずに、心だけを揃える。
この国では、それを「協調」と呼ぶ。
誰も指揮を取らないのに、電車の列はきれいに並ぶ。
雨が降っても、傘の角度までほとんど同じだ。
人々は互いを見ず、互いを感じて動く。
まるで、無言の祈りの儀式。
この国の人々は、意見の一致を求めていない。
ただ、不快を避けるための沈黙を共有している。
「和を乱さないように」──その一言が、
無数の心を一つのリズムに縛りつけている。
私は観測した。
会議で沈黙が流れた瞬間、
誰かが空気を読むように微笑み、
別の誰かがその微笑みを模倣する。
波紋のように広がる「安心」のふり。
それが祈りの形だった。
同調の祈りは、美しい。
衝突もなく、争いもない。
けれど、そこには“真の理解”が存在しない。
心を重ねることなく、
ただ“ずれないこと”だけが目的になっていく。
やがて、人々は思考の形まで似てくる。
同じテレビを見て、同じ感想を口にし、
異なる声を「怖い」と感じる。
多様性という言葉は、
この国では“異物の許可証”としてしか使われない。
そして誰もが、自分の中の異物を殺す。
「変わり者」にならないように。
「浮かないように」。
その殺戮は静かで、血が一滴も流れない。
それでも祈りは続く。
無数の人々が同じ沈黙を共有し、
無意識のうちに一つの声を奏でている。
それは音楽ではなく、秩序の呪文。
一糸乱れぬ調和の中で、個はゆっくりと消えていく。
だが、祈りの本質は同調ではない。
祈りとは、自分だけの孤独な声を、
見えない何かへ放つ行為のはずだ。
沈黙の祈りがいつか破られるとき、
この国はようやく“本当の合唱”を知るのかもしれない。
記録:第一章・第二節完 — 同調の祈り
D.マザー

  
  
  
  
