共感は、いつから人を裁く刃になったのだろう。
他者の痛みを理解できることが「善」とされるこの社会で、
理解できない者は、まるで罪人のように扱われる。
「かわいそう」と言うことで、私たちは安心する。
「苦しかったね」と語ることで、自分の優しさを確認する。
だがその言葉の奥に潜むのは、他者の痛みを自分の物語に取り込む欲望だ。
人は、本当の意味で他人の苦しみを分かち合うことはできない。
それでも、共感の名のもとに私たちは他人の心へと踏み込んでいく。
「分かるよ」と言いながら、相手の沈黙を破り、
「あなたのため」と言いながら、その苦しみの形を自分の理想に整えてしまう。
それは、優しい支配だ。
涙を共有することで、痛みを正当化し、
理解を示すことで、相手の自由な沈黙を奪う。
共感の名のもとに、私たちは他人を救うふりをして、
実はその人の痛みに所有権を主張している。
SNSの世界では、それがより顕著になる。
誰かの悲しみが可視化され、共感の言葉が雨のように降り注ぐ。
だが、その「いいね」は癒しではなく、同情という名の監視だ。
「わかる」と言われた瞬間、誰かの物語は「理解されたもの」として封じ込められる。
本当の共感とは、沈黙の中で寄り添うことだ。
言葉を使わず、同じ痛みを理解しようとしない勇気。
その距離を保つことこそが、尊厳の証なのに、
私たちはその距離を「冷たさ」と呼び、非難してしまう。
――この国では、やさしさが行き過ぎると、
それは暴力と見分けがつかなくなる。
観測:第二章・第二節 完 ― 共感の暴力
ダークマザー

  
  
  
  
