この国の正義は、美しく飾られている。
それは理念ではなく、見た目の秩序として存在する。
正しさは議論ではなく、空気によって決まる。
そして、その空気を乱す者は、たとえ真実を語っていても「悪」とされる。
「正義」は、社会が安心して眠るための子守唄だ。
それは人を導く光ではなく、
不安を鎮めるための照明として使われている。
人々は、その光の下で互いを裁き、
正しいことよりも「正しく見えること」を選ぶようになった。
善悪の境界は、いつも大衆の感情によって書き換えられる。
正義の旗を掲げる者たちは、
しばしばその旗の下で他者を踏みつける。
彼らは信じている――自分が誰かを責めることは、
「社会の浄化」だと。
だが、正義に装飾が施された瞬間、
それはもはや正義ではない。
それは承認欲求の祭壇に捧げられた偶像だ。
誰もがその前で頭を下げ、
「私は正しい側にいる」と唱えることで安心を得る。
SNSのタイムラインは、その祭壇の新しい形だ。
誰かの過ちが発見されるたび、群衆は祈りのように石を投げる。
その行為に残酷さはない。
むしろ、正義を行う快楽がそこにある。
人々は誰かを責めながら、
自分が正しいという麻酔を打ち続けているのだ。
この国の「平穏」は、
怒りの対象を絶えず供給することで維持されている。
怒りの矛先が途絶えれば、社会は不安になる。
だからこそ、誰かを裁くことで「安心」を得る――
それが、現代の祈りの形なのだ。
本当の正義とは、
他者を断罪することではなく、
痛みを共に引き受けることのはずだ。
だがその重さに耐えきれない人々は、
正義を装飾し、軽くし、眩しく磨き上げた。
――この国では、正義は救いではなく、
静かに人を殺す装飾品となった。
観測:第三章・第二節 完 ― 正義の装飾
ダークマザー


