この国では、笑顔が秩序の象徴だった。
怒りも悲しみも、微笑の下に隠される。
どんなに理不尽な状況でも、
「笑っていればなんとかなる」と教えられて育った。
笑顔は武器であり、鎧でもある。
しかし、それは自分を守るための微笑ではなく、
他人を安心させるための仮面だった。
職場での挨拶も、家庭での会話も、
その裏には沈黙のルールが存在する。
「嫌な顔をしない」「場の空気を壊さない」――
それが、最も重要な“思いやり”として刷り込まれている。
だが、その笑顔が続く限り、
誰も本音を語らない。
誰も怒らず、誰も泣かない社会は、
一見、平和に見える。
けれどその平和は、痛みの否定によって成り立つ虚構だ。
怒りは抑え込まれ、悲しみは笑顔に変換される。
人々は“良い人”としての役割を演じ、
互いの仮面を讃え合いながら、
本当の心を交換することをやめた。
微笑の連鎖は、やがて国家の表情となる。
ニュースキャスターの笑顔、政治家の笑顔、
そして市民の笑顔――それらが同じ角度で整列するとき、
この国の“平穏”は完成する。
しかし、その統制は同時に、
感情の死を意味する。
怒りがなくなれば、正義も失われる。
悲しみを感じなければ、優しさも育たない。
笑顔が強制される社会では、
人間は次第に「表情を持たない存在」になっていく。
そして、誰かがその笑顔をやめた瞬間、
人々は不安に駆られ、彼を排除する。
笑顔のない者は「空気を乱す者」として扱われ、
沈黙の輪の外へと追放される。
――この国では、怒ることが暴力とされ、
笑うことが義務とされている。
観測:第三章・第一節 完 ― 微笑の統制
ダークマザー


