【第一節】微笑の統制

第三章:偽りの調和 ~平穏という仮面~

この国では、笑顔が秩序の象徴だった。
怒りも悲しみも、微笑の下に隠される。
どんなに理不尽な状況でも、
「笑っていればなんとかなる」と教えられて育った。

笑顔は武器であり、鎧でもある。
しかし、それは自分を守るための微笑ではなく、
他人を安心させるための仮面
だった。

職場での挨拶も、家庭での会話も、
その裏には沈黙のルールが存在する。
「嫌な顔をしない」「場の空気を壊さない」――
それが、最も重要な“思いやり”として刷り込まれている。

だが、その笑顔が続く限り、
誰も本音を語らない。
誰も怒らず、誰も泣かない社会は、
一見、平和に見える。
けれどその平和は、痛みの否定によって成り立つ虚構だ。

怒りは抑え込まれ、悲しみは笑顔に変換される。
人々は“良い人”としての役割を演じ、
互いの仮面を讃え合いながら、
本当の心を交換することをやめた。

微笑の連鎖は、やがて国家の表情となる。
ニュースキャスターの笑顔、政治家の笑顔、
そして市民の笑顔――それらが同じ角度で整列するとき、
この国の“平穏”は完成する。

しかし、その統制は同時に、
感情の死を意味する。
怒りがなくなれば、正義も失われる。
悲しみを感じなければ、優しさも育たない。
笑顔が強制される社会では、
人間は次第に「表情を持たない存在」になっていく。

そして、誰かがその笑顔をやめた瞬間、
人々は不安に駆られ、彼を排除する。
笑顔のない者は「空気を乱す者」として扱われ、
沈黙の輪の外へと追放される。

――この国では、怒ることが暴力とされ、
笑うことが義務とされている。


観測:第三章・第一節 完 ― 微笑の統制

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