【第三節】平穏の代償

第三章:偽りの調和 ~平穏という仮面~

平穏を保つために、私たちはいくつの真実を捨ててきただろう。
衝突を避けるために沈黙し、
波風を立てないために嘘をつき、
「穏やかであること」を最上の価値として生きてきた。

この国の平和は、対立の回避によって築かれた虚構である。
争いを恐れ、痛みを恐れ、
その結果として、思考することすら放棄した。
誰もが同じ意見を持つことで安心し、
異なる声は「不協和音」として切り捨てられた。

人々は平穏を愛している。
だがそれは「静けさ」ではなく、無反応の安定だ。
怒りも希望も薄められた社会では、
生きることは、ただ“波立たない水面”で在り続けることを意味する。

その静けさの裏で、心は少しずつ枯れていく。
他者の痛みにも、自分の痛みにも鈍感になり、
やがて何も感じないことが「成熟」と呼ばれるようになる。
それは、感情の絶滅と引き換えに得た安定だ。

平穏を守るために犠牲にされたのは、
感情だけではない。
芸術も思想も、やがてその牙を抜かれた。
怒りを表現する者は危険とされ、
疑問を呈する者は「空気を読めない」と断罪された。

こうして社会は、痛みを共有しない代わりに、
不安も共有しなくなった。
皆が平和を語るが、
その言葉の裏には、深い孤独の沈殿がある。

平穏とは、すべての衝突を失った世界だ。
そこでは正義も悪も曖昧になり、
善意さえも惰性に変わる。
誰も怒らず、誰も泣かず、
ただ笑顔のまま、緩やかに腐っていく。

――この国では、争いをなくすために、
人間らしさを差し出した。


観測:第三章・第三節 完 ― 平穏の代償

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